コロナの後のことなど

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川英樹

 

コロナの後、ポストコロナのことを上手く考えられない。
これまでの日常はもう戻らない。では、別の日常はありうるか。日々、無為に時間が過ぎて行くのが悔しい。私の時間はもうそれほど多くない。出来ることは限られている。

こう思ったことがある。
「テレビは何をしてきたか」ではなく「テレビは何をしてこなかったか」を考えるべきだ、と。いま、それをこう置き換えよう。私が何をしてきたかを振り返るのではなく、私は何をしてこなかったのかを見つめよう。

そこにはあり得たかもしれないもう一つの可能性があり、そこにもう一人の私がいる。
私はたまたま「今」「ここに」生きているけれども、別の時間・時代、別の場所に存在していたかもしれない。
 「私たちが選択した『現在』は、選ばれなかった無数の可能性と等価であり、したたがって異なった選択をした人々の『現在』とも等価である。」(「メディア論ノート2002」前川 「高度情報化社会のガバナンス」坂井利之・東倉洋一・林敏彦編著 2003 NTT出版 所収)

小松左京は、傑作「日本アパッチ族」の「まえがき」にこう書き記している。
「同時にそれは、この小奇麗に整理された今日の廃墟の姿ではなく、廃墟自身のもう一つの未来、もう一つの可能性なのかもしれない。―――この荒唐無稽な、架空の物語は、私の中になおも頑強に行きつづけている『戦後』なのである。」※下線は原文では傍点(1964年 カッパノベルズ)

「もう一つの未来、もう一つの可能性」は作家の仕事に限らない。それは私たちの想像力
の問題である。人との連帯や共生は、想像力から生まれる。

21世紀は9.11.と3.11.とコロナの時代として記録されるに違いない。コロナ禍は、おそらく人間の歴史の大きな転換点として語られるだろう。

残りの時間をそのような時代とともに生きるとしたら、私たちは何をしてこなかったのか、その意味を繰り返し考えてみたい。

「太平洋戦争の敗北でも折れなかった『なにか』、戦後には別の形をとって発展を遂げていった『なにか』が、今度はボキットくじけて、そこからさてどちらの方向へ芽が出ていくんだろうかというまことに重要な分岐点に今、来ているんだと思います」中沢新一
(『大津波と原発』内田樹×中沢新一×平川克美 2011.5. 朝日新聞出版)
ここでいう「何か」とはこの国の近代の過程である。
「人類の歴史が教えてくれるのは、安全で豊かな社会に暮らせることは例外的幸運であって、人類史のほとんどの時期をぼくたちは窮乏と危険をベースにして、それに対処するように人間は能力開発プログラムを作り出してきた。そして、その能力の開発を怠った人々、『目に見え、耳に聞こえるもの以外のものは存在しない』と豪語した人間たちにどのような罰が下ることになったのか、それは神話時代から現代のホラー映画に至るまで、人間たちは語って倦まなかった。せめてその事実については『合理主義者』たちにも同意してほしいと思います。」内田樹 (同)

3.11.の直後に語られたこれらの言葉は、いまコロナ禍にあって再び語られても不思議はない。近代は何をしてこなかったのか?

だから! 取り敢えず、読まなかった本、読み返したい本、もう一度観たいままになってしまった映画、行く機会を失ったままの展覧展示、など。そして、訪れてみたい場所。遠くなくていい、例えばどこか関東地方の忘れられたような町でいい。そんな風に時間を過ごしたい。それは回顧ではなく確認であり発見だと私は思う。
あり得たかもしれない<私>、ワタシ。
80歳。
結構な時間が過ぎてしまった。
取り返すことはできないし、それはそれでいい。
ただ、残りの時間はそのように過ごしたい。
コロナが私から奪ったものを確かめるために。

 

 

 

 

本を作りました。

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「象の消滅」のことなど

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現代短歌の面白さ

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「NHK短歌祭」(NHKホール)。ちょっとしたご縁で、お誘いがあった。現代短歌は好きだ。それにしても、森羅万象日常の細部に至るまで歌われている。すべて歌なのだ。良い時間を過ごせた。帰りの代々木公園の夕日が凄かった。

私の大賞

・避難所のどこに置くのか通信簿見せたい母のいないその子は

どこかに置かれたか、あるいはしまわれてしまった通信簿 それはその子のアイデンティティーに深く関わるこの切なさは母を早く亡くしたわが身に刺さっくくる。

・「家」の字の中に住んでたかたつむり流さぬようにして墓洗う

墓参りとは、実に様々な思いを惹き起すものだが、それはほんのちょっとした情 景によってもたらされる 

・シャガールと魁夷の馬が天駆ける国境のなき空のたまゆら
(近藤芳美賞より)

ジョン・レノンの"イマジン"に通じるものがある シルクロードの旅に国の境はない
 佐佐木幸綱氏の
"朝焼けの空にゴッホの雲浮けり捨てなばすがしからん祖国そのほか" 
に通じると思う 

もう一句挙げるとすれば
・百均のレインコートを元通り畳むあなたは何かに耐える(二席より)

百均という単位のリアリティーがつかみ難いが、レインコートを元通りに畳むという単純行為であればこそ耐える孤独が伝わってくる。 この時男は世界向き合っているのであろう 。

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 実に多様な世界と人とをうたった短歌があり、短歌は何でもありだということと、短歌は文字の文化であると同時に言葉(読む=聴く)文化だと改めて思う。それだけに詠むのは難しい。


もう一つ。
抒情と美しく、且つ厄介なものである。国家は抒組織しようとする。国家による抒情を拒むことにおいて成立する表現がある。現代短歌の原点がそこにあると思うのだが、どうだろう。

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帰路、代々木公園の夕陽が凄かった。
短歌的だと思った。

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